院長 堀田信二
私が精神科医となり、病院・クリニックでの診療や企業内での面談にたずさわる日々の中で、「自分も含め、人が悩み苦しんで助けを求めている時に、いったい何が本当に救いになるのだろうか」というテーマが、一貫して頭にありました。
そして、精神医学や心理学のいろいろな知識や技法を学び、実践してみましたが、十分に納得のいく答えはなかなか見つかりませんでした。
そういう手探りを続けるうちに、ようやく今、方向性が見えてきたという実感があります。
当クリニックにおいて、私が目指す『治療』は、「治療者が治療を受ける人(クライエント)を一人の人間としてわかろうとすること」です。
これまでの診療で感じたこと
なぜなら、次第に私は、精神科の病院やクリニックに来られる方々にはある一つの共通した無意識の欲求(ニーズ)がある、と感じるようになったからです。
それは、「自分のことをわかってもらいたい」というニーズです。それに応えることこそ、本質的な意味での『治療』になるのではないか、と思うようになりました。
私たちが生きる上でのさまざまな苦しみや悩みは、症状と呼ばれるものも含め、表現される形は誰一人同じではないですが、それらが切実であるほど「自分をわかってもらいたい」という共通のニーズとして、私には感じられます。
薬物療法などの一般的な治療は、症状を和らげるには有効ですが、直接そこに応えているとは思えません。
とはいっても、一人の人間全体をわかろうとすることは、かなり難しいことだと思います。心底自分がわかってもらった、という体験があるかどうかを自問自答してみると、想像しやすいのではないでしょうか。
まして、診断名をつけることでは、とてもこのニーズが満たされるとは思えず、むしろ邪魔になってしまう場合が多いと感じます。
本質的な治療とは
さらに、私自身の経験からも、本当に「自分をわかってもらった」と感じることは落ち着きや安心をもたらし、より深い意味で「自分をわかっていく」ことにつながると思うのです。また、古来より、「わかる」ということは、「頭で」⇒「心で」⇒「体で」という順序で深まっていくとされています。
つまり、「クライエントの立場に身を置いてその言葉に耳を傾け、理屈や感情だけでなくできる限り体感的・直接的にわかろうする治療者の態度に支えられて、クライエントが自分自身を深くわかっていくこと」こそ、私のテーマに合う『治療』だと感じるのです。呼び方は、カウンセリング・精神療法・心理療法・セラピー・精神分析療法…いずれでも構わないと考えています。
この、「体でわかる・わかられること」=『腑に落ちる・しっくりくる体験』を積み重ねてしみじみとした本心を実感する過程で、自らを抑えつけ閉じ込めてきた価値観が見えてきて、その殻が徐々に破られ、同時に、独自の感受性の芽が育まれていくのだと思います。
そして、その『感じる力』によって、人は本来の自然な生き方へと向かうことになると思うのです。結果として、苦しみや悩み・症状はそれほど気にならないものに形を変えていくことになります。
ともに同じ地平で
そして、治療者自身もまた、一般論・学問的知識・常識的な感覚・権威的な後ろ盾などとは別に、自分をわかろうと独自の感受性を磨き続けていること、自身に正直であろうとすること、が必要不可欠であるのは当然のことだと思います。
治療者とクライエントが、お互い一人の人間として同じ大地の上に立ち、ともに自分をわかろうと汗を流して自分の内面を深く耕していくうちに、新しい自分が芽吹き、根を張り、生き生きと枝を伸ばして葉を広げる、というイメージが浮かびます。
その営みの中で、時には、自分に内在している生命力・自然治癒力のようなものの働きを感じることもあるかもしれません。
人間が生きていく中で、孤独を抱え絶望的な気持ちになった時、また、正直で真摯な気持ちになった時、まだ自覚しない本心に近づくのだと思います。
苦悩をきっかけに自分を再発見し、自然な生き方へと向かうことがすべての人に起こりうると信じ、自分自身をわかっていくことが今の苦悩から救われることに繋がるかもしれない、と予感のある方々のご来訪をお待ちしております。