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罪責感について(一)罪悪感と攻撃性

先日、あるクライエントと罪責感について話し合う機会がありました。
「自分の罪責感を分かってもらえた感じがしない」という指摘を受け、「確かにそうだ」と応じたやり取りでした。
以前の記事、「心理療法とは何か(二)」で罪責感について触れたことがあり、「苦悩に導かれて(一)」でもネガティブな感情の一つとして罪悪感を挙げましたが、クライエントとのこのやり取りに触発されて、あらためてこの記事を書いてみたい気持ちになりました。
まず、より一般的に使う言葉である「罪悪感」を入り口に書いてみようと思います。

真っ先に思い出すのは、まだ僕が教育分析を受け始めて間もない頃、あるセラピストがケースについて「この人は罪悪感で気持ちに蓋をしている」と発言したのを耳にしたことです。罪悪感という感情はその奥に別の気持ちをはらんだものである、という表現が、当時の自分にとっては新鮮だったと記憶しています。
以前していた精神科の保険診療での診察場面でもそうでしたが、日々の精神療法のセッションでもクライエントが罪悪感について言及することは比較的よくあります。最近の、治療が始まって日が浅いクライエントたちとのやり取りが浮かびます。

一人は女性です。職場で、ある分野の役割をまっとうすることに熱心ですが、上司や周りの同僚たちはそこには関心が低く、自分が負う仕事が多くなっていると言います。不満や怒りを抑えて溜めている一方で、自分はこの仕事に向いていないのではないかと感じています。また、プライベートでは交際相手に怒りをぶつけてしまうことがあり、そこに後ろめたさを持っています。
もう一人は男性で、職場では中間管理職として比較的適応して働いていますが、家庭内では「あなたの態度が家族を苦しめている」と告げられたそうです。家族のために頑張って働いていたつもりなのに、とショックを受けて来院しました。生き方を否定されたようで苦しい、家族に申し訳ない、と言っています。

二人とも罪悪感を持ち、そこに苦しさを感じたことをきっかけに来院するに至りました。そして、すでに表出されているか、まだ潜在しているかの違いこそあれ、どちらも攻撃性・責めの感情(他責・自責)をともなっている心理を話しています。
罪悪感という言葉には、やましい、後ろめたい、といった言い方と同じように、無意識にある善悪に関する内的規律が関わっており、それに照らして悪の側に自分がいるニュアンスがあります。そこに自責の感情が加わると、負い目がある、申し訳ない、といった言い方になりそうです。
ここで自分自身を振り返ると、過去の体験に思い当たります。分析を受け始めて半年ほどして初めて参加した、津川クリニックのケースカンファレンスの場面です。
とても楽しみにしていたのに、イメージしていた雰囲気と違うと感じてすごく緊張して居づらく、いたたまれないほどの気持ちだったこと、そういう自分をだめだと強く感じたことを覚えています。

ここまで罪悪感と書いてきましたが、クライエントたちにも、僕自身にも、共通して攻撃性・責めの感情がともなっていました。そこでこの記事では、罪の感情そのものを指す時は「罪悪感」、それに攻撃性や自責・他責の動きが結びついた心理的体験を指す時は「罪責感」と呼ぶことにします。罪の感情と攻撃性とは密接に結びついているのではないか、と感じるからです。

罪責感の形はさまざまで個人差があるように思いますが、罪の感情は攻撃性に拮抗する、ブレーキのような働きをしているという見方ができると思います。
たとえば法律は、人間が社会を形成する上で、その無意識的・本能的な部分に内在している攻撃性を意識的・理性的な部分によってコントロールし、一定の秩序を保つための枠組みとしての位置づけがあると考えられます。

攻撃性・責めの感情のもとをたどると、思考や感情、感覚よりずっと奥にある、心臓の鼓動や胃腸のはたらきを支えている、生命そのものの駆動力、エネルギーに行き着くと言えそうです。前述のクライエントたちの、仕事に取り組む意欲やパートナー・家族とつながりを持とうとする気持ち、僕がカンファレンスに臨むにあたって持っていた期待にも、生きる上での攻撃性の自然な発露からきていた部分があったと思います。
しかしながら、そこに何らかの不自然さ・歪んだ部分があると、攻撃性は過剰な形をとることになります。強迫的なあり方と言ってもいいかもしれません。その結果、自分や他人に対して破壊的な成分を持ち、自他の苦しみにつながっている状態だと考えられます。

一方で、罪の感情もまた攻撃性と同様に、意識にのぼっているものや客観的に明らかなものは氷山の一角であり、無意識の奥深くにおよんで潜在しているのではないかと感じています。
ここで浮かぶのは、被虐待死した子供が虐待した養育者に対して自らを責め、許しを乞う言葉を書き残したという出来事や、紛争地や難民キャンプの孤児たちが「自分が悪い」と口にすると以前に聞いた話です。どちらにも、自責の感情がともなっています。

人間が幼いほど、身の安全、生存を保障する養育者の占める比重は大きく、幼児の心的な世界では絶対的な存在だと言っても過言ではないと想像します。だからこそ、養育者から安全を脅かされたり養育者を失ったりという生存に関わる事実に、心理的に直面することは非常に困難であると思います。
そういう事態になると、心的世界の崩壊を防ぐために、無意識的に善悪に関する内的規律を作り出し自分自身を悪の方に置く、という心理的なエネルギーのはたらきが、これらの例の背後にあるのではないでしょうか。

幼くて無力な自分の生存に関わる不安に対して防衛し、危機的な事態をコントロールできる感覚を保とうとする心のはたらきは、自分を世界の因果関係の中心に置く、いわば世界は自分中心に動いているという幼さゆえの心性とも言えるでしょう。
そういう角度から見ると、今の苦しみにつながる過剰な罪責感は、無意識に残っている幼い頃の心理的防衛であり、人間の自己中心性の表れの一つであるという見方もできると思います。こうした自分へのとらわれは、仏教では「我執(がしゅう)」と呼ばれるものにも通じていくように思います。
また、罪の感情が生まれながらに人間に備わった心のはたらきかもしれない、という点は、キリスト教の原罪という概念や、われわれ人間が生きていくために他の生物の命を奪う存在であるという事実とも関係がありそうですが、これらについては別の稿であらためて考えてみたいと思います。

前述のクライエント二人の心理に戻ります。
両者とも、勤め先やパートナーとの間にそれまで保つことができていた安心感が失われたことをきっかけとして、今までは自覚していなかった罪の感情を自覚することになっています。この感情は、現在の環境や関係性において無意識的に幼い頃の親との関係を重ねている、という置き換え、つまり転移が関わっていると僕には感じられます。

ここには、昔の自分にあった生存と安全を脅かされる不安な気持ちを、今の現実のものとして感じている、という錯覚あるいは主観性があると言えます。また、無意識に隠された幼い自己へのこだわりとも言い換えられると思います。
僕自身のカンファレンスでの罪責感の体験にも、同じような意味があったと振り返ります。

いわゆる普通の道徳的な観点から言えば、人間の心理において、罪悪感はあって然るべきものとされていると思います。理性の一部とされているとも言えそうです。
そして、当たり前のものとされているために、ふだん僕たちは罪悪感をそれとして自覚しているわけではなく、悩みや苦しみとして感じた時に初めて自覚されるものだと思います。

以前書いたように、「人は、表現することでより深く感じる」という実感をもとにすると、苦しみとして自覚された罪責感について話し合っていくことを通して、それ自体についての分かり方が増していくことに意味があると感じています。
それは、当時は抱えきれずに悪いものとして自分の無意識に抑え込まれていた昔の気持ちを、今の自分が受け入れていくプロセスとなり、その抑圧が緩んでいくことにつながるのだと思います。

冒頭のクライエントとのやり取りのおかげで、ここまで表現を進める刺激がもらえたことに感謝したいと思います。
この罪責感をそのままに見ていくことにどんな意味があるのか、次の稿で書いてみたいと思います。

2026年10月26日 記

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