苦悩に導かれて(四)近藤章久先生と孤独
今回は、
主観的不安は一体どこから来るのか?
本来の自分・自然な生き方とはどういうことか?
ということを書いてみたいと思います。
「誰とも共有できない深さを持つもの」
以前の記事で、僕の腹部の張りの感覚――主観的不安や、クライエントの内面に生じる気持ちの奥にあるものについて、こう書きました。
自分の感じていることというのは、言ってみれば主観です。それをそのまま表現しようとする時に、
「今自分が感じていることを同じように感じている人は自分の他には誰もいないのではないだろうか?」
という不安の感覚は、自覚する・しないにかかわらず、本来は必然的にともなうものなのでしょう。
それが、腹部の張りという身体感覚として、つまり、分かりやすく主観的な形で感じられているのではないでしょうか。この「誰とも共有できない感覚」こそ、主観的不安の元にあるものだと思います。
教育分析を受け始めて数か月経った頃、「近藤章久記念7・20精神療法セミナー」に初めて参加した時のことです。津川先生がケース発表をされていて、問題意識として「涙の体験と潜在している孤独・無力感」を挙げ、
「近藤先生が治療者の心構えとして『相手の一点を直観しろ』と言われていた一点とは、それぞれの人の孤独・無力感と言い換えられないだろうか」
という主旨のお話をされていました。
その時の「孤独感」という言葉が、何となく頭の隅に残っていました。
その翌年、2011年2月に近藤先生の13回忌の集まりがあり、近藤先生に対して、「この人は本物だ」と感じた体験がありました。その会の中で、晩年の近藤先生が発言された録音(1994年のセミナー)を聴いた時のことです。以下は、その録音からの抜粋です(原意を損なわない程度に編集しています)
「本当の意味での安定は、誰かに受け入れられることでも、何かの手法によって得られるものでもないのです。深い所にある、ひとりひとりの人間としての本質的な孤独に直面して、それを引き受けていくことでこそ、深い安定、腹の底から『生きた』という感じにつながっていくのです。この深い孤独感を、誰もがどこかで無自覚にして防衛しているのです。」
「孤独感に直面して初めて、自分に与えられた命の意味を本当に感じる――今まで自分だと思っていた自分に死んで、本当の自分に生きるのです。」
これを聴いた時、孤独感という言葉が耳から入って体の芯を揺さぶるような強烈な感覚を受けたのを覚えています。抜粋を続けます。
「人間は一人で生まれて一人で生き、一人で死んでいきます。人間は孤独な存在だから強く、つながりたい、と思うのです。それは人間の一番深い所にあり、それが人間を信頼させ安心感を持たせるのです。それは治療の場で、生き生きとあなた方の身と心を通じて出てくるものです。」
「私と患者さんとの間の共通な地盤――ともに生かしてくれる大きな力の存在を感じて、それがあるが故につながっていると私は感じるのです。それを患者さんも感じてくださることもある。そういう体験から私は申し上げていて、教条的に言ってるわけではありません。どうか権威的な言葉として受け取っていただきたくないのです。」
当時、目をつぶってこれらの言葉を聴きながら、その声の一言一言が、細かい粒子のように全身の皮膚から体の奥にしみこんでくるように感じていました。帰り道に一緒だった参加者に、しみじみと「孤独の話が良かった」と話したことを記憶しています。
思春期に、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の一節で、主人公が「石炭袋」と名付けられている暗黒星雲の深い暗闇に怖さを感じつつも、「ほんとうのさいわいを探しに行く」と決意を語るシーンでなぜか泣けてくる感覚がありました。また、予備校の小論文の授業で「友人と親密になるほどに孤独を感じる」と書きました。
もっとさかのぼれば、幼少期から周囲に馴染めない感じ、少年時代も何か周りとずれている感じがありました。ただ、それらの記憶はつながりを持っていませんでした。
今になって振り返れば、孤独感というものが、言語化するどころかそれとして感じることもできないまま、ずっと自分の心の奥にあったのだと思います。そういう孤独を感じることへの不安がまだ腹部の張りとしても感じられることなく無意識のうちにあり、それが、心もとなさやその後の焦りのような感覚を生じさせていたのではないかと思います。
近藤先生の言葉を聴いた時に、この孤独感こそ、それまで自分が生きてきた中で、なんとなく心の奥にずっとあったものだと得心したような、目を開かされたような思いでした。深い、静かな感動の体験でした。
当時のメモにはこう書きました。
「この人は本当のことを言っていて、それをよりはっきりさせてもらう感じ。本当に体験を話している凄みのあるものだった。絶対的な孤独が見えなくなることによる空虚さを分かっている。」
この時生じた近藤先生に対する敬意・尊敬の念は、今まで誰にも感じたことのないものでした。
あれから15年以上経ちました。しばらくして生じた主観的不安を手掛かりに、自分の奥底に潜む孤独感を意識しつつ自己観察を続けてきて、年月をかけてゆっくりと深まってきている感触はあります。
時を経た今、近藤先生が体験された深い境涯にはまだまだ遠いと、ますます感じるようになっています。その一方で、以前に比べるとネガティブな感情が溢れる、あるいはそれらに呑みこまれてしまうことは減り、それらの奥にある孤独感が近くなってきているような気がしています。
それとともに、呼吸法をしている時や自然の中にいる時に体の中を巡る気の流れを細やかに感じる、味噌汁や日本酒に今までにはなかったしみじみとした味わいを感じる、日々のセッションで言葉にならない何かが僕とクライエントの間で流れているのを感じる等、以前よりもそれぞれの実感が少しずつ増してきていると感じています。
主観的不安と付き合って内面の孤独感を引き受けていく、という方向をどこまで追い求めていくかは個人の好みだとは思いますが、少なくとも僕自身はまだまだその欲求が尽きません。あるクライエントに「なぜそんなに自分を発見したいのか」と問われて、「そこに居場所があるような気がする」という言葉が自分の口をついて出たこともあります。
ただ、この僕自身の孤独感の深化が、不思議なことに、治療の場で出会うクライエントの当初のネガティブな感情が変容して気にならなくなっていくプロセスを手伝うことには役に立っている、むしろ、その僕自身の深まりによってしか手伝うことはできない、とも感じています。
雨が山に降って川となり海に注いで雲となる、季節の移ろいで葉を落とした木々がまた芽吹いていく――僕たち日本人は古くから、そうした自然の営みを自分と切り離して対峙するものとしてではなく、自らもその中にある一体のものとして親しんできました。
そういう精神性・感受性と、心の奥にある実存的な孤独の深まりの先にある、我々を超えたものに生かされているという実感は、深さの違いこそあれ同じ根っこを持つものではないかと感じます。
つまり、そういう自分の「生」を実感する体験は、特別な人に限られたものではなく日常を生きる僕たち個人個人の心の底にあり、常にその入り口は開かれていると思います。そして、日々の生活の中で大なり小なり生じる悩みや苦しみにこそ、その体験へと導いてくれる内なる自然からの呼びかけという意味がある、と感じています。
2026年10月1日 記
※苦悩に導かれて(一)(二)(三)(四)参考資料
近藤章久著「セラピストがいかに生きるか――直観と共感」(春秋社)、「第12回近藤章久記念7・20精神療法セミナー(1994年)」録音、「第28回近藤章久記念7・20精神療法セミナー(2010年)」録音、宮沢賢治著「銀河鉄道の夜」(千歳出版 古典名作文庫)
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