苦悩に導かれて(一)ネガティブな感情
「心理療法とは何か」の記事で、今の悩みや苦しみを取り除くことが唯一のゴールではなく、それらに導かれて本来の自分が回復されていくプロセスこそ治療の本質だと考えている、と書きました。
悩みや苦しみの元になっている、一般的にネガティブとされる感情の奥にこそ、そこから救われていくための内なる呼びかけがあるのではないか、というのが僕の治療観の特徴の一つです。
思いつくままにネガティブな感情を挙げてみます。
イライラ、焦り、不安、緊張、怒り、悔しさ、恐怖、嫌悪、嫉妬、恥ずかしさ等は、どちらかというと頭で感じることが多いように思います。
もっと首から下の方で感じるものだと、悲しみ、寂しさ、疎外感、不満、落胆、憎しみ、恨み、屈辱、軽蔑、恥、後悔、罪悪感、劣等感、自己嫌悪、無力感、喪失感、絶望感、虚無感…挙げればきりがありません。もちろん、言葉のニュアンスの違いも含め、感じ方も個人差があると思います。
初回の面接で来られた方々に、これらの感情をなくしたい、そうならないように解決法を知りたい、と言われることがよくあります。苦悩の中にいて、それをなくしたい、解決したいという願望自体はごく当たり前のものです。
また、心理・精神的な治療をする人達の方でも、そういう気持ちを客観的に観察する、対処法を見つけて付き合い方を身に付ける等、最終的にはそれらの感情をどうにかしてなくそう・コントロールしようとする方向が一般的なようです。そうしてあげたくなる気持ちの元にも、人間として自然なものがあると思います。
そして、そういうコントロールしようとする方向が、一時的に苦しみや辛さを減らす手段として必要かつ有効な場合はあり、苦悩のさなかにいるクライエントの側が、その中から自分に合ったものを選ぶのも当然のことだとは思います。
一方で、その方向だけでは、さまざまな人間関係や状況で湧いてくるネガティブな気持ちが、いったい心のうちのどこから来るのか?という問いが一般化され、曖昧なままになってしまいます。その結果、その奥にある極めて個人的で自然なあり方へと導いてくれるものが、手つかずのまま残ってしまうと感じます。
もっとも、そこを曖昧なままにしておきたいという心理も、むしろ人間らしさの一部なのだとも思います。
クライエントには、初めのうちに、
「ネガティブな感情を減らす手段は、自分に合いそうなものを何でも試してみるといいと思う。僕はその手段を教えることには自信がないけれども、それらの感情を減らすだけではなくて、あなたの中のどこからくるのかを一緒に見ていくことは手伝えると思う」
と伝えることがたびたびあります。
僕のこの発言に対しての反応でセッションを継続するかどうかが分かれる、少なくともそこへの抵抗感が大きくない方が、継続を選ばれることが多いです。
そして、治療が開始された後の道のりでも、セラピストとクライエントの関係が深まっていくにつれて、今度はこの関係の中でクライエントの側にセラピストに対してさまざまな感情が湧いてくることになります。
治療関係で湧くこれらの感情は転移感情と名づけられていて、ポジティブなもの、ネガティブなものに分類されるのが一般的です。転移については別の稿に譲り、ここではネガティブな感情の方にフォーカスします。
こころでこころを分かろうとする治療とは、クライエント自身が身体内部に生じる感じをそのままに見る感覚が育つことをサポートすることだと考えている、と以前の記事で書きました。
僕自身のセラピーを受ける・する両方の経験を振り返っても、この感覚がすんなりと育っていくことの方が少ないと感じます。セラピーが進むにつれてクライエントの内面には、程度はさまざまですが、セラピストに対する不安や緊張、愛憎半ばする気持ち、盲信や不信感などが絶えず浮かんだり沈んだりして深まっていく、というプロセスになっていると思います。
治療関係という以前に同じ人間同士ですから、心の交流が深まるほどに治療者に対して治療を受けるきっかけとなったネガティブな感情を抱くのは、ある意味必然的なものかもしれません。
つまり、治療関係の中で生じるそういう感情もまた、それを直接セラピストに表現することによって、その奥にある自分の無自覚だった気持ちに気づいていく機会になると考えています。
治療が開始となった際には、すべてのクライエントに、
「今感じている事や思っている事を浮かぶままに話すことにもし抵抗感が生じたら、言わなくてもいいのでそこに注目してください。もし今後続けていく中で、僕に対して怒りやがっかり(異性の場合は失恋感情)などの気持ちが生じたら、話せそうなら話してください。少なくとも僕の方ではそれも含めて聴くつもりでいます。」
と伝えています。
さきほど書いたように、人間同士ということではセラピストである僕の方でも関係が深まるにつれてさまざまな感情が浮かびます。
逆転移と呼ばれるものです。それがどのような感情であろうとも、例えばネガティブな感情であれば、自分の内面のどこから出てきたか、自然な成分と不自然な成分はどうか、あるいはクライエントのどこに反応して生じているのかを探ろうとします。
つまり、クライエントとともに僕自身もまた、自分について分かる機会になるわけですが、そのように自己理解が進むことが、クライエントに対しての分かり方が深まることに連動しているという感覚があります。そういう意味でも、これらの感情は、クライエントとセラピストの両者をともに本心に導いてくれるものである、セラピーとはそういう共同作業であると感じています。
この稿で書いてきた、苦悩の元にあるネガティブな感情をコントロールしようとする方向ではなく、この苦悩自体によって救いに導かれていくという治療観は、僕が教育分析を受けるきっかけとなった個人的な体験に根差しています。それは次の稿で書いてみることにします。
2026年7月19日 記
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